4日目の最終日になります。宿をとった遠野市から海岸線に戻り
せいちゃんのいる石巻市がゴールとなります。遠野市のGSで給油して
話を聞くと、岩手県内陸部でも震度6強あり倒れた建造物なども
あったようですが、今では町の機能も復活しているということです。
峠道をこえて岩手県大船渡市に入ります。大船渡市も港湾部は工業地帯
町の役場昨日などは少し高台にということで、ボランティアセンターも
警察署の脇の駐車場を利用してプレハブで建てられていました。
県外ボラの受け入れはしていますが、宿泊場所などの提供はないようで、
地元高校生の学校が始まった最近は人手不足を感じているようでした。
現状では物資倉庫の整理や家屋の片づけが基本作業ですが、ニーズは
増えてきているようです。こちらのボラセンの方はのりがよいのか、
よみがえれマグネットを渡したところ、すぐに追加注文をいただきました。
港湾部の被害ひどいところを視察しましたが、他の市では見られない光景
として、残った工場を修理して再開するとか、瓦礫を撤去した更地で営業を
はじめる会社などがかなりありました。行政の違いかかなり元気な町です。
大船渡市港湾部の映像4月24日(2:37)
次に陸前高田市に向かいます。移動距離は1時間くらいですが、その間の
海沿いの全ての町が破壊されています。岩手から宮城までリアス式海岸の
港・住宅街・工場地帯など海に近いところ、川沿いの所全てがやられていました。
陸前高田市に入ってみた景色は、今までで一番広く一番ひどいものでした。
海から平坦な地形に集中して駅・家・学校などが立ち並んでいましたが、
その平坦部全てが壊滅していました。車で移動している時は気がつかないのですが、
降りて足元を見ると、子供の靴・レコード・本・食器類など、3月11日2時46分まで
普通に生活していた事がわかるものが泥にまみれてそこにあります。
海からの風の音しかしない風景の中で、ただただ立ち尽くすしかありません。
陸前高田市市街地(4:43)長い映像ですが市の被害の大きさがわかります
いよいよ、宮城県に入ることができました。次は気仙沼市に向かいます。
気仙沼市は津波の被害とあわせて火災の被害もひどかったところです。
今までの被災地とは違い、火災の後の鉄の焼け残りが錆色になっているので、
また風景が変わっています。木材は燃え残り、黒くなっています。
気仙沼市市街地(3:16)焼け跡も大きな船もありまだ片付けは進んでいません。
石巻の前の最後の町が南三陸町です。こちらは、ベイサイドアリーナと言われる
総合体育館が役場機能・避難所・ボランティアセンター・自衛隊駐屯地・報道など
集約されていて、大きなベースキャンプのようになっています。
ところが、ここに電気・水道のライフラインが復旧していないという大変さで、
自衛隊の発電機などが活躍しています。ボラセンは大きなWFP国連世界食糧計画
のテントの中にあります。車中泊での滞在もOKなようで、活発な感じがしました。
やはり、役場とボラセンとが近い場所は活動がしやすいように思えます。
南三陸町では聖学院大学の学生さんが集めた募金を、物資として提供できないか
という情報を集めて欲しいと言うことで、物資管理専門の方にお話を聞きました。
そこで、欲しいものは水・米・野菜・果実と言われ少し驚きました。
今まで見たきた避難所にはこのような物資はすでに足りているように思えたからです。
しかし、話を聞くとライフラインとしての水道の完全復旧は半年かかると言われ、
その間、炊き出しを含めて1日1万食×3食を提供しなければいけないので、
いくら食べ物があっても足りないと言う話でした。ショックでした。
責任者の方も疲れていたようでしたので、よみがえれ南三陸ステッカーを
差し上げたところ、急に笑い出し、「車に貼りたいけど俺、車ごと流されて
ぎりぎり助かったから、車が無いんだよ。でも代車に貼らしてもらうよ。」
と言ってくれました。自らも厳しい状況で、役場の仕事で大勢の市民を守らなければ
いけない重圧や責任感など、感じることができました。
笑ってもらえ、少し緊張がほぐれたようで、こちらもうれしかったです。
南三陸町も市街地は海沿いでしたので、被害は甚大です。
夕方最後の時間に町を通り過ぎた風景が次の画像です。
南三陸町市街地(2:11)震災後一ヵ月半でも火災が起きている場所もあります。
夕闇せまる中の被災地にまた電気の無い夜が来ます。
すっかり夜になり、最終目的地石巻に到着しました。
ちょうど、災害復興会議の全体会議の時間でしたので、
せいちゃんと会い、社協の阿部さんや復興会議の伊藤さんなどとも
挨拶して会議に参加しました。石巻はやはり一番大きな集まりかもしれません。
全体会議・分科会とわかれて機能的に、物事が進んでいるように感じました。
そこで看板屋のやっさんとして挨拶させていただき、ステッカーなどの
感想を聞くことができました。追加でまた作らなければいけません。
看板屋さんとしては色々と喜びの多かった視察でした。
そして、今後も看板屋さんの持つ力をもっと集めて、
被災地の元気を生み出すことができればと考えています。